»グアムからオーナーSU-の独り言:グアム野外実弾射撃GOSR
このページでは、グアムアウトドアシューティングレンジ(G.O.S.R)のオーナーSU-ことスズキヒロノブが「今、想ふ事」を誠実に、時に冗談まじりで、月1連載で書いていきます。
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マンゴーの季節。5月のグアムの楽しみといえば、マンゴー(果物)である。 この島中にあふれるマンゴーの木は、ちょうど今が食べごろの拳大ほどの実が、枝が折れるほどにタワワに実る。島の南部、GOSRから更に南は街路樹までがマンゴーの木で、今頃から道路沿いの無人販売所では一袋20個ほど入って5ドルそこいらで売っている。
完熟前のまだ青い実をスライスして酢漬したマンゴーは昔から島民の好物で、大きなガラス瓶にいくつも大量に漬け込んで保存食とし、一年中、ご飯のオカズ、あるいはパンに挟んで食べる。その他に酢漬けと言えばこの島産のキューリはピクルスとなり、同じく大根も大量に漬け込んで沢庵の酢漬けとなり、何故か茹卵も?好んで漬ける。(甘酸っぱくほのかに黄身が発する硫黄臭と相混った、、中々の珍味)年中夏のこの島の気候は、その時々に採れる食材をそうして酢に漬ける事で日持ちさせる保存食として昔から受け継がれた島民の知恵なのだ。
因みに酢は古代から盛んに作られていた。彼らは椰子からじつに旨い酒を造る。(ツバと言う名の椰子酒)よく冷やしたものは真にフルーティーで子供でも飲めそうな軟らかいその酒を、更に発酵させれば酒は上質な酢に化学変化する。昔はこれ(酢)を高血圧の予防、傷の消毒、子供の急な腹痛、発熱、その他にも絶大な効力を発揮したらしい。島で椰子酢とは、いわゆる「万能」なんだ。
マンゴーの実は種が大きい分、果肉が少ない。冷凍庫で一旦チルド状に凍らせ、鋭利な刃物で果肉をこそぎ落として食べるのが一番で、冷たいからいっそう旨い。この時期の最大の楽しみであるマンゴーは、おそらく島中の皆が毎日のように食べないと一向に減らないのだよ。「嘘じゃないんだ」、、、汗オイラなんかドンブリ鉢に山盛りで毎日食べる。否、じつは食べさせられると言ったほうが正解なんだけどね。マンゴーの木がある隣近所から毎日差し入れが絶えないんだよ。そんなに沢山頂いても完熟は食べなかったら、、捨てるしかない。我が家の犬、猫は当然食べないし、主に食べるのは私だけなんだよね。「おとーさん!頂いたものを捨てるなんて出来ないからネ。チャンと食べてよお願いよ!」それがこの時期に、毎日のように続くんだ。
42年前、この島で発見された元日本兵、横井庄一さんは、ジャングル生活28年中、毎年この時期に成るマンゴーは天の恵みにしてカレンダーの代わりだったそうだ。指折り数えてこの時期を待っていたらしい。発見当時、誰かが「横井さん、今は昭和何年かわかりますか?」って聞いたらしい。そしたら横井さんは、即座に「昭和47年!」って答えたらしいのだ。居合わせた一同は、皆ビックリして首をかしげていたらしいのだが、あとで親しい人に「あの美味しいマンゴーは残念ながら一年に一回しか実がつかなくてね、実がなる季節が待ち遠うしくて待ち遠うしくて街路樹にも使われている天然マンゴーは、実が小さいから面倒でもそんな具合に(いったんチルドにしてから)するのが一番だ。しかし、味は絶品である。蜜柑も(この島にもある)バナナも、天然種はいずれも小さい。何れも味は酸味が強く濃厚で、野生種ならではの深い味わいである。
マンゴーも栽培種のメキシコとかフイリピン産の大玉になると日本では一個2,000円もするそうだ。GOSRの皆にそれを言っても誰も信用しない。ところがその大玉も、グアムには自生的な、最初は誰かが植栽したんだろうが、それが増えて管理しないから野生種のように見える大玉マンゴーもあるのだ。以前、どこかの土地に無数に茂っていた大玉の大木を見てビックリしたものだ。天然種の3倍程もある大玉の実がその庭にゴロゴロと幾つも落ちていた。一個2,000円として、10万か15万円分が転がっていたと思う。ところで大阪屋の親爺さんはそんな秘密の大木がある場所を知っているのか?今ごろは毎日のようにマンゴー狩りに出かけては店に来るお客さんに振舞ってる。だから今頃は大阪屋に行けば誰でもマンゴーをタダで食べられる。それを目当てに必ず今頃グアムにくる客もあるそうだ土地の古老が言うには去年は不作であったが今年は豊作だそうだ。皆さんもぜひココの絶品マンゴーを味わってほしい。
SU-

「桜咲く4月」4月と言えば、日本では新年度の始まりで職場にしろ学校にしろ新入生、新社会人は4月がスタートだ。GOSRにも例年2月3月は卒業旅行の若者が多い。いま時の学生はリッチで旅行費用もさることながら小使いも相当持っている。増して今は空前のドル安に学生に限らず若い社会人も相当な買い物をする。日本人の大好きなブランド物は3、4年前に比べれば3割も安いのだから。今がチャンスなんだろう。
大昔、満7歳のオイラが今は亡き母親に付き添われ行った小学校の入学式も、長じて幾たび経験した入学式はいつも桜が満開で、今でもこの季節になるとあの頃を思い出す。あの日の式典に集まった多くの同級生と、既に居た多くの先輩と新たな先生方の顔をいちいち見比べては、また新たな友人ができる期待と少々不安な気持ちが入り混じったなんともいえない雰囲気は嫌いではなかった。そんな時、きまって桜の花びらがハラハラと新たな出会いの場の多くの人たちの上に降り注いでいたものだ。ところが!である。何と!そうした一連の行事を9月に変更しようという動きが何だか?本決まりになりそうなのだ。5年をメドにそうする。そんな動きが本格化しそうな雰囲気に、「いいじゃネーか少しぐらい違ったってよ!」と、オイラは思う。
世界的にみれば確かに9月が新スタートの国が圧倒的なんだけれど、だからこそむしろ一つぐらい(正確には日本だけではないが)その点だけは日本は、あの桜が満開の下のセレモニー(入学式、入社式)はさすが桜の国の日本だ!彼等(諸外国)だって彼らの国独特の習慣はそれぞれあるんだから、そこは「郷に入れば郷に従う」べきじゃないのかなー、、それが、、、、「当たり前田のクラッカー!」じゃないの?
ここグアムにも、そんな独特な習慣が幾つもある。先ず、小中高大学からして6、3、3、4の日本とは違い5、3、4、4である。しかも飛び級まであるから16歳で大学に行く者もあれば、高校を卒業して一旦社会人になり、そこで十分な社会勉強をして尚、向学心に燃えるなら大学に行くのは珍しくはない。むしろそれが良い。
自分で稼いで生きて世の中の仕組みを知った上で、大学で本格的に学問をすればそれはそれで尚良い。30歳過ぎた学生は珍しくもないのがアメリカ社会なのだ。軍隊だって教育期間の4年を優秀な成績で過ごせば大学入学の費用と授業料を持つスポンサーになってくれる。この島で私が通った歯医者はそうして歯科医師になった。偶の演習(義務だから)に参加してそのまま戦闘服姿で患者を治療しているんだってコッチじゃ珍しくもなんともない。その昔、プロ野球広島東洋カープにいた元大リーガーのポプキンズという野球選手は野球を引退してから大学の医学部に入り小児科の医者になった。
どーも日本と言う国は、その点でも画一化(横並び)し過ぎな面が多い。その子の個性を大切にしてそれを大きく伸ばすという事がない。若くして才能を開花させた子は必ずその子の親が、それこそ血の出るような(常識外の行動にでる事による世間からの冷たい目にさらされながら)ヒタスラ、その子の才能を信じ二人三脚で努力を重ねた結果が、時として一芸に秀でた天才児を生む。今の日本は世間が人を育てることはまずない。むしろ世間が「個性」を潰してしまう。どうも日本人は総体的にみればそのような「異端」をひどく嫌う民族のようだ。2千年も続いた農耕生活の「村単位の共同体社会」がその基本なんだろう。そこいらの狩猟採集民族とは違うんだ!と言ってしまえばそれまでだけれど、21世紀の現代に果たしてそんなんで良いのか?とも思う。「個性は美徳」そんな違う生き方があって良い。個人もだが国だって他国と違うのが当たり前なのだよ。それぞれ国が違えば生活習慣も違う。環境だって宗教だって違うんだからこそ、そのあたりがそれぞれの国のアイディンティティーを生むんじゃないのかなあー、、だから他と違う。それで良いと思うね。今の日本も、これからの日本も絶対に不足する人材は老人介護部門だと思う。
しかし、どうもこれが等閑になっている。急速に進む高齢化社会をいったいどのように乗り切るのか?諸外国から特にアジアの貧しい国々から人材を集めること自体誠に良いことなのだけれど、問題はどうやら日本国の介護制度のバカバカしいほどの規制だ。日本の介護試験をパスしたものに与えられる介護師資格を、どこの国の者でもすべて例外なく日本語による試験義務付ける制度自体を何とかしたほうがヨッポド良いんだ。
季節的にもすばらしい4月の桜が満開に下での誠に日本らしいセレモニーを、いとも簡単に変えようとするくせに、、、それらの国から勤労意欲旺盛な若者に、難解な日本語での試験を平気な顔で押し付けるバカバカしさを、いったい何と考えているのか?所轄官庁のそうした既得権益に風穴を空けて風通しよくすることが政治家の役目なはずが、政治家という既得権益に自らが染まりぬいて、政治家の定数を減らすとなるとそっぽ向く輩があまりにも多い。「総論賛成、各論反対」 なんとも日本人らしい言葉ではないか?だから掛け声だけで一歩も進まないんだよ!こんなご時世(史上最大の借金国家)になったのはいったい誰がしたんだ??あんた達(代議士)だろうよ!いい加減に目を覚ましてほしいもんだ。
一時、相撲界がやれ八百長だ!博打だ!って騒がれていたけれど、彼らは自らの肉体を極限まで鍛え上げて一対一の裸で勝負をしている男達で、たとえ位を極めて横綱になったとしても成績が悪ければ(弱くなれば)後は引退しかない厳しい世界。ところが一方、政治家の世界は太平楽で、一国の宰相まで勤め上げた者が、依然として議員に留まってるなんて図はみっともなくていけない。潔くサット身を引くべきだし一国の宰相以上の仕事なんて他にあるのかい?それともイッソ社会に出て、一市民になって暮らしてみろ。世の中の仕組みを下から見てみろ!って言いたい。「あの魚屋の親爺は元宰相だってよ!」キッと押すな押すなで客が来るはずだよ。剣(真剣での闘争時)の心得の第一は「肉を切らして骨を断つ」自らの血を流す覚悟があって初めて相手を倒す事が出来るんだ。血を流す覚悟。これを忘れちゃー何んにも前に進まないんだよ。グアム。この小さな島にも10年前まで議員が20人居た。それが今は15人だ。景気が悪いから自分たちの歳費を少しでも減らす。見事じゃないか!簡単にいとも簡単に自らの定員を減らして見せたんだよ。そんな状況(不況)ならみんなで一緒に汗を流がそうよ。知っているだよこの小さな島の彼らでさえ世の中の道理っつうものをさ!律令国家になって既に2000年近くがたつ日本なんだからその辺もう少し日本人自身がしっかりしてほしいと思う。
SU-

あれから(東北大震災)一年です。
3月11日で、丁度一年。
あの日、ハワイに暮らす次男が午後4時ごろ電話くれて、「お父さん大変だよ!日本に大地震が発生して大津波が…」。忘れもしません。
早いもので、あれから一年が過ぎる。あの映像を見て、あの時ほど痛烈に「この世の無常」を感じた事はない。人生の「儚さ」を今更のように実感した。
あそこでは何百万という人々が、それぞれ家庭を持ち職場で働き学校に行き、将来に希望を持って生きていたはずだ。ところが、時にああして突然に起こる強烈な自然現象に翻弄され大自然の猛威に為す術を知らない。
「津波のバカヤロー!!」
と、叫ぶ親を亡くした子供を見て、胸が張り裂けそうだった。人生、「一寸先は闇」、改めて実感した次第だ。
我々人間は、一分一秒先も読めない。丁度、鏡のような湖面を進む船に乗っているのと同じで、進む前方の水面下に大きな岩が潜んでいたとしても、ブツカルまで判らない。明日の約束がない片道列車に乗って、それぞれの終着駅に向って突き進んで行く。人生とはそんなモンだろうと思う。だからこそ毎日を、ほんとうに真剣に生きないといけないのだ。
朝7時に店を開け、夜11時に店を閉めるまでの16時間を365日、毎日毎日繰り返しているコンビ二大阪のマスターは、自分の人生を楽しむという事より、、あーして朝から深夜まで店に立つ事が「天から与えられた己の使命」と心得て、人生をマットウする気なのだ。あの真剣な生きザマは、市井に暮らす多くの人たちの典型です。
日本に足りないものが一つあるとすれば、それは政治の不毛。
低俗な執政者が屯する国会こそが諸悪の根源なのだ。いずれも二枚舌の妖怪どもが跋扈する阿片屈・・・。幸い、今年は国政選挙が取り沙汰されてる。確かな一票でよくよく人材を選挙しようではないか!必ず未来は明るい日本を確信している。
SU-

グアム島は日本から南にまっすぐ(南極に向って)2580キロの南西太平洋上にある、平均気温25度の常夏の島である。更に南に途中赤道を越えて3000キロ行くとオーストラリアだ。南極までは更に3000キロ行く。初期の南極観測船「宗谷」は必ずこのグアム島で補給と休養をした。さて、グアム島から東南東約1600キロ行くとサンゴ礁に囲まれた島、チューク諸島がある。無数の島々からなるマーシャル群島の中では人口が一番多い。北緯8度だからより赤道に近い。そこから東南東に約3500キロ行くとハワイ諸島だ。途中、ミッドウェー島が見えるハズだ。その南東海上付近一帯は昔から多量の雲が発生する海域で、時に強烈なタイフーン(台風)のタマゴ(トロピカルストーム)が生まれる。あの辺りからグアムに真っ直ぐ向ってくるトロピカルストームは特に要注意だ。
10年前、グアムに壊滅的被害をもたらしたタイフーン「ポンソナ」はちょうどあの辺りから真っ直ぐ史上最大(風速98m)としてこの島を襲った(2011年9月号参照)。戦後は長く国連が信託統治していたが1995年アメリカの保護領になった。以来、多くの島民が比較的近くて同じ太平洋上にあるこのグアム島に出稼ぎに来ている。その島の人たちをチューク人「チューキス」Jhuukiesと言う。肌はライトなチョコレート色。体格は男女ともに大きく手足長く体つきに比べて顔は小さく目は大きく睫毛長くて顔立ちはハッキリしている。肌の色といい一見してアラブ人のようだ。ただ、女性は思春期あたりから例外なく急激に太りだす。尤も丸々と太った女性が彼等の美意識でいう「美人」なのだそうで、髪は漆黒の俗に言うカラスの濡羽色、しかも長く伸ばし相撲取りのように頭の上に高く結い上げる。独特な極彩色の、くるぶしまでの長い円筒系をしたダブダブのスカートをまるで自分たちの丸々とした体型を隠すように穿き、履物は決まって裸足にビーサンだ。ただ最近の若い娘達はジーンズにスニーカーが多い。彼女達の伝統衣装ではどこの職場も雇ってくれない。彼女らがはくジーンズのお尻はどの娘も例外なく今にもハチ切れそうにみえる。
男はそうでもない。ただ彼等の食生活と母親のDNAか?デブとまではいかないが肉付きは非常に良い。運動神経も抜群で脚力腕力とも強く「男」として申し分ない。島の暮らしは貧しく、せいぜい魚を獲るかタロイモを栽培して売るかで生活を支えるが、1995年以来アメリカの保護の下、多大の援助で人並みの暮らしが出来るようになった。ただ、以来多くの男はアメリカの兵隊になった。第一次湾岸戦争以来今回の対テロ戦争でも多くの島の男が戦死した。島独特なチューク言葉があるが小学校から英語教育だから軍隊に入っても彼らに言葉の壁はない。 前線の兵隊(消耗する)としては彼らは申し分ない。勇気はあるし運動神経も抜群で、しかもたとえ戦死しても安くつくのだろうか?20世紀の半ば過ぎまでイギリスは植民地インドから多くのインド兵を各地の戦いで使った。フランスもイタリアも同じように植民地から、オランダもベルギーもドイツもロシアも、そして日本も、みな同じようにそれぞれの植民地から多くの男を兵隊に使った。小説「坂の上の雲」の秋山好古少将(日本騎兵の祖)が戦ったロシアのコサック騎兵もやはり少数民族だ。現在のアメリカもそうである。パラオ諸島、マーシャル群島、マリアナ諸島もすべて保護領にした。そして40年前のベトナム戦争以来、アメリカは徴兵制を布いていない。自衛隊同様に広報活動で多くの若者を集める。しかし世の中の景気が良ければ今時の若者は軍隊を嫌う。1990年代からの好景気に比例して軍隊の定員割れは深刻な状況にあった。いくら笛を吹いても若者は集まらないのだ。深刻な兵隊不足に頭を悩ませた当時のアメリカ政府は、大平洋上のこれらの島々をアメリカの保護領にすることでそこから兵隊を補おうとした。
今回、グアムも無関係ではない沖縄普天間基地移転問題を見るに付け、日本人同士(沖縄県民と日本政府)の反目に頓着せず日本の防衛の肩代わりの代償だと言う事だけで土足で他国に踏みこむような(一方的な日米地位協定も然り)態度は正に大国の植民地主義の何ものでもない。増して哀れは、確かな国家感もない日本の薄っぺらな政治家が、権力(=単なる議席)の奪い合いだけに終始している今の現状だ。選挙に勝つためには平気で自国民さえ欺き、それら思惑いっぱいの大国に阿る非国民的政治家の存在を見過ごしてしまう日本人の気質。何事も丸く治めようとする日本人。それはそれで、良いのだが・・・。
要は「大国」のエゴに振り回されるのは日本もチューク諸島の島人もおんなじだと言うことだ。食料その他のインフラを援助してやる替わりに兵隊を出せ!アカラサマだよ。借金の形に「娘を差し出せ!」。やってる事は悪代官と変りゃしない。
さて話を元に戻そう。
そんな彼らチュークの男に欠点があるとすれば彼らは酒に弱い(下戸という意味ではない)。要はダラシしのない酒になるのだ。ウソか眞か?あの島では酒の販売はご法度で、島の政府の特別な許可がない限り酒は売れない?1920年代のアメリカに似た「禁酒法」が今でもある。体格が体格だからいくらでも飲む。そして狂ったように陽気になる。普段おとなしい口下手が酒が入ると人柄が変る。それも悪い方に変るのだ。日頃の鬱憤が?酒の力で一気にマグマのように噴出すのか?彼らの新しい雇い主アメリカ軍も最初はそれを知らない。前線ではキツイ任務なだけに酒は豊富にある。彼らはその酒を飲んで狂う。軍隊は階級がすべての厳格な縦割り社会だけれど、一旦酒が入った彼らにそんな上下関係は霧散と化す。注意した上官を平気で殴る。押さえつけようにも何しろ怪力の持ち主ぞろいだから酒が入った彼らほど危険なヤツらはない。この島でも同じで、稼いだ金で好きなだけ酒を買う。酔った彼らが引き起こす事件事故は絶えない。しかし、むやみに他人を傷つける事はしない。酔った彼らを挑発しなければいいのだ。そして、間違っても日本語の「バカヤロー!」を言うのはだけは止めた方がいい。彼らは「バカヤロー!」の日本語が解かる。「トンマなヤロー」の意味も理解する。
今から70年前、日本とアメリカが激しく戦った太平洋戦争。チューク諸島は第一次世界大戦以来日本の信託統治領であった。当時の「トラック諸島」だ。巨大な東京都ほどもある広いトラック環礁が有名で、その環礁自体が当時は海の要塞の体を成していた。対米開戦時の華々しい「真珠湾攻撃」で撃ちもらしたアメリカ機動部隊の殲滅を図って立案した「ミッドウエー作戦」が思わぬ敗戦で逆に連合艦隊虎の子の航空母艦4艦を失う大敗北に、山本長官自身深刻な「欝状態」に陥り、開戦初期の貴重な時期にも関わらず8ヶ月もの間、連合艦隊は天然の要塞深く閉じこもってしまうという無為無策を演じている。今回の福島原発事故に措いても明らかになったが、危機に陥った際の対応能力のマズサはこれまで事有るごとに見てきた。阪神淡路の大地震のときもそうだった・・・。どうやら日本人の最大の弱点はそのあたりに思えてならない。どんな場面でも、事が行け行けの上げ潮時には指揮官なんて要らない。去年終わったNHKドラマ「坂の上の雲」あの時代の維新の大回転を成し遂げた彼ら(明治の若き指導者たち)とは、これが同じ日本人か?と首を傾げたくなる程その後の日本人指導者の著しい質の低下は本の著者、司馬遼太郎自身そんな思いを述べている。
巷間言われる震災時の菅内閣の危機管理の欠如、やはりそれは事実だった。しかし振り返って、今の日本のリーダーの中で果たして誰が真のリーダー(ボス)足りえるのか・・・?しかし、そこに今、「西の都」に、それらしい人物が現れつつあるのだが…と、オイラは個人的には大いに期待しているのだけれど。
アメリカ海軍の太平洋上の要ハワイと、当時独立国とは名ばかりのアメリカの属国フイリピンの首都マニラを一直線状に結んだ丁度中間に位置する地理的環境と、日増しに高まる当時の仮想敵国アメリカを意識した大日本帝国海軍は、トラック諸島(チューク諸島)を一大要塞化した。天然の環礁を利用した大規模な基地を建設するにあたり多くの島民を使役した。彼らは日本兵から日常的に「バカヤロー !」「トンマなヤロー !」って言われ続けたのだろうか?なによりも嫌う言葉が「バカヤロー」なのである。
何年か前、GOSRにも彼らが働いていた時期があった。最初は実によく働く。ただ、自分で判断して働くという事はない。与えられ命令された仕事は黙々とこなす。しかし監督者がチョット目を離せばすぐにサボる。何より、給料日の翌日から決まって無断欠勤が始まる事だ。3日、長いのは一週間仕事に来ない。辞めたのかと思うとそうでもない金が無くなると平気な顔で戻ってくる(笑)。Joe(現G.O.S.R. Renge Master)は彼らを使う名人で、ニンジンを鼻先にぶら下げた馬のようにして彼らを上手く使う。さすがにアメリカ陸軍元曹長だけある。見事な「人使い」っぷりだ。どこまでも優しく彼らに接する。言って聞かせ、やって見せ、やったら誉める。誠に感心する人使いの達人だ。しかしそんな達人にして、彼らチューク人独特の精神構造と生活習慣までは理解できず終いにはJoe自身が疲れ果てた。元来このあたり南西太平洋で暮らす島人はすべてそうだが、一度もこの辺りから外に出たことがない男も女も、、外の暮らしを知らない分、色濃く古くからの習慣が抜けない。特に彼らはそうで集団で暮らす。親子三代は言うに及ばず、親戚一同、従兄弟鳩子まで一緒に暮らす集団生活が当たり前なのだ。寝る時は重なりあって寝る。高校の時、集団で登った八ヶ岳の山小屋で寝た雑魚寝、丁度沢庵を漬けるように大根を互い違いに並べたように、自分の顔のすぐ前に誰かの足がある。
ま、そこまでいかないまでも、満員電車の中のような集団で暮らすのが彼等の習慣で、一軒家で20人30人で暮らす。着るものも食べるものも個人の所有という意識すらない集団だから、自分の物であって自分の物でない??どう説明してイイのやら…?
すべてが集団の物(者)である集団生活には必ずボスがいる。ボスがいない集団は集団とは言わない、単なる「烏合の衆」だ。「お前とお前は働きに行け。お前は子供の面倒をみろ。お前とお前は食事の支度を、お前達は外で遊べ」すべてボスが指図する。そうなると公私が無いから着る物まで共有する。「このシャツは明日は私がつけるからね」「お前がつけてるズボンは明日は俺がはく」ってな具合で生まれたときからそんな集団生活をしていれば違和感なんて無い。
ただ、そうした集団生活者が一般社会に出て、まったくの他人と一緒に同じ職場で働くとなるといろいろな差しさわりが出る。自分、他人の区別がつかないから他人の弁当は平気で食う。誰かが洗濯して干してあるシャツ、ズボンなど平気で自分が着てしまう。一般の常識に当てはまらないのだ。
どこかの家の庭で洗濯物が風になびいていたら、彼らはその洗濯物を着てしまうのだ。彼らが多く住む地域の住宅では、洗濯物は外に干さないのが今や常識なのだ。(ホント!)(笑)。あるとき女房と二人、久しぶりの水曜ナイトマーケットに出かけたときの事。GOSRのロゴ入りのポロシャツを着た一団を見た ! よく見ると彼らが凡そ7人すべてがGOSRのポロを着ていたのにはこっちもビックリだ。(なんらかの宣伝効果)はあるのだろうけど(笑)翌日、Joeは2人居た彼らに、Joeにしては珍しいほど「怒った」。尤も、バカヤロー!とはさすがのJoeも言わないけれどね。以来、ポロシャツの管理はJoeの専売になったんだ(笑)。人は育つ環境でどのようにも染まる。生まれ落ちた環境がオオカミの群れであればそこで人間の子供はオオカミとして育つ。
「井の中の蛙大海を知らず」では本当に困る。
日本人の「内弁慶」的モノの考えでは、先の大戦の二の舞になる。それこそ国家100年の大計を誤る。これからの日本の若者は早いうちから外国に出て国際感覚を大いに研かねばならない。川の上流のゴツゴツした荒削りな石ではダメだ。下流に流されて行くうち角がとれて丸くなる「上等な砂利石」の如くでなければならない。
あのチューク人も、この島で長い時間を過ごす事で少しずつ研かれてその社会に溶け込み少しずつ国際感覚(常識)を身に着けていくんだ。果たして今は徐々にではあるがそんな彼らが多くなったことは事実で、どこの職場でも彼等の活躍は珍しくない。そしてG.O.S.R.にも、やがてそんな彼らが戻ってくる事だろう。
SU-

この島は皆さんもご存知のように、毎日が「夏」しかも常夏です。
ハワイとか沖縄も同じ常夏とは言え、1月2月は涼しすぎてとても海には入れません。その点グアムは、正真正銘紛れも無い「常夏」です。だから一年中、短パン、ビーサンで通す島民は多い。結婚式だろうが葬式だろうが、必ずそんな格好のおじさん(偶におばさんも)を見かける。最初はそんな小父(小母さん)さんを見て、いちいち驚いたが今はこっちも慣れっこで何の違和感もない。
“何も付けてないスッポンポンじゃなし、立派なTシャツ(大概はどこかの宣伝が入っている。アメリカの大手ビール会社のロゴ入りが多い)と、短パン、ビーサンで一年を暮らして何が悪い!”と、小父さんは言う。何千年もスッポンポンで暮らしてきた確かな実績(?)が、そんな地元のおじさんのDNAにしっかり受け継がれているんだろう。
ゴルフ場で見かける長ズボン姿は必ず観光客で、私も含めて地元はすべて短パン(むろんゴルフシューズは履く)。南国の強烈な太陽に、顔と首と二の腕の半分から下と膝から下、ここが異様に焼けて、たまに行く日本の大衆銭湯で鏡に映る自分の裸を見るに付け、一人だけその部分の黒さが異様だからか?どうりで、みんながジロジロ見るんだなー。このオヤジいったいどんな商売してるのか? ってね(笑)。
それから、実際にこの島で長く暮らしてみると(来年で18年になります)、なんて言うか、その・・・時が、時間ですが・・・ツッー・・・と、わりかし早く流れていきます。私の年齢がそう感じさせるのか? ほんと、アレよアレよッちゅー間に時が過ぎる。「春夏秋冬」がない常夏の島の暮らしは、四季の移ろいを感じさせる間もない一本調子だから余計そんな感じがするんだろうか? しかし一方では、各駅停車に乗ったような、ある意味でここの暮らしは退屈です。「退屈こそが最大の贅沢」だ、なんて仰る方も偶には居ますが、普通は誰だって「退屈」は・・・タイクツですよね??そんな「退屈」が嫌で、朝から晩まで休まず働く人が実はこの島には意外と多い。中には3つも4つも、と言えば大げさに聞こえるけれど、実際そんな働き者は居る。アメリカの最低時給は$8チョィ弱。歴史的にこの島とつながりが深いフイリピンから多くの人がこの島で暮らすが、かれらの大多数は非常な働き者だ。時間8ドルといえば彼の国では一日の賃金に匹敵する。ここでの一日の稼ぎは彼の国の10日分ぐらいなのだ。だから寝る間も惜しんで働く。朝から一つこなして、夕方から深夜までもう一つこなしてその職場の休みの日にもう一つこなして土、日にもう一つこなす。
怠け者が多い地元ッ子(チャモロ)も、中には、学校の先生が夜の時間とか土、日に警察官のアルバイトを(予備警察官制度がある)、警察官が非番にスーパーの警備員を(これは心強い)、夜間専門の警備員が昼間その店の店員を、スクールバス・ドライバーが夜タクシー・ドライバーをする。意外な気がするけれど働き者に人種の差はない。「南の島だからみんなノンビリ暮らしている」は間違いだ。しかしそんな働き者は絶対的に少数だけれどね。
この島では断然、日本人観光客相手の商売はどこも忙しい。ホテル、免税店、レストラン、各人気のオプションツアーなどなど、少しの日本語を話せれば仕事に困らない。日本語がじょうずなら引く手数多だ。時給だって$12-14はザラだ。やはりフイリピン人で働き者のまだ22歳と若い娘が月$4,000も稼ぐという。彼女に特別な才能はない。日本語が上手くてチャーミングなだけだ。雇う方も彼女の日本語が魅力だから時給も高い。若いし、疲れを知らないパワフルな働きぶりだからそんな大金を稼ぐんだろう。彼女の一年の稼ぎで彼の国では家が一軒建つというから、このままあと20年もここで働き続ければキッと彼女は大金持ちだ!がんばれ!
ある地元の旅行会社に、御歳80歳を遥かに越えた不死鳥のようなバアーちゃんが働いていた。英語と日本語ともう一つの国の言葉を巧みに使い分け孫のような同僚たちと仲良く働いていた。遥か昔に最愛の夫を亡くし子供も居ないから文字どうり「天蓋孤独」の生活をこの島でおくっている。夫との思い出がいっぱいのこの島から彼女は離れようとしない。この島は小さい。島の何処に行ってもこの島すべてが彼女には最愛の夫との思い出の場所なのだ。夫の墓もこの島にある。いつか彼女もその墓に入るのだろう。今は90歳を越えたか?そのご婦人にとってこの島は、昔あった映画のタイトル「天国に一番近い島」そのものなんだ。その更に大昔のフランス映画に、アラン・ドロン主演「太陽がいっぱい」という映画があった。イツも身なりがキチンとしていて、彼女が外出するときは髪が乱れないように頭からシャネルのスカーフを巻き、濃いめサングラスをかけ、細身の華奢な身体に花柄のワンピース姿は、「太陽がいっぱい」の中の若い女優を彷彿とさせる後姿だった。あの女優も、もし生きているとしたらそうとうなお婆ちゃんになっているのだろう?今年も新しい年がめぐって来たが、我々人間は、毎年毎年歳を重ねて老いて最後には必ず死ぬ。彼女もやがて死んで行くのだが、“私はね、楽しみなのよ、だって「亭主」に久しぶりに会えるからサ!”
彼女とは昔同じ職場だった事がある。その時分から相当なお歳でその会社の名物婆ちゃんだった。“〇〇チャン(沖縄出身の有名なゴルフの女子プロと同じ名前)は、イツもキレイにしいるね?”オイラが聞くと、ケラケラ笑いながら、“死んだ亭主がね、私がボロ付けてると(お洒落してないと)怒るのよ。だから毎朝バッチリ化粧して良い洋服を着て出かけることにしてるの。”その会社も、彼女が働けるうちは居てもらおうと考えてくれていたらしい。だが、今は居ない。老いはその名物婆ちゃんから確実に身体の自由を奪っている。後は最愛の「亭主」のところに行くのを待つばかりだ。“これでやっと旦那さんに会えますね”もし彼女にまた会えるとしたら、そんな一言を言って上げたい。
SU-

そうは言っても最近は、温暖化の影響か?大して寒くもないし景気も悪いから昔のようにウキウキと正月を迎えるなんてぇー気分もあったモンじゃありません。 ここグアムもおんなじで、何せ日本がクシャミすればここは風邪をひいちゃうんですから、そのあたりの相関関係はまるで母子以上でありますネ。
一時は、一部の逆上せ上り野郎どもが沖縄から海兵隊司令部が引っ越して来るは、金持ちチャイナがわんさか来るはの「獲らぬ狸の皮算用」でダイブ先行投資した早とちり連が今はスッカリ影を潜めてしまい、中には夜逃げした者もおるそうで、早い話、オイラみたいな貧乏人なんかはそんな浮気もしようもなくヒタスラ日本からのお客さま一筋でヤッテおります。
忘れもしないこの3月11日の東北大震災をTV映像で目の当たりにした当初はさすがに呆然痔失。じゃなかった自失で(失礼しました!)、一痔は(またまた失礼して・・・)それ相応の覚悟をしたもんです。 日本人観光客は半減どころか80%のダウンは必定。そんな囁きを聞いてJoeと二人、正直、首を洗いました。そんな中、一人気を吐いて(義援金募集)をいち早く掲げた大阪屋(コンビニエンス大阪)のおっちゃんは本当に偉い!と思いました。震災2日後の13日には早くも店内にデッカイ募金箱を設置、オイラなんか以来、あそこに行く度に半強制的に義援をさせられますけどね(笑)。うわべだけのチャラチャラ野朗と違いあの人は本物ですよ。
人は見かけ(姿、形)だけじゃありません。この島にも居ますが〇〇会の会長、副会長、理事だなんて肩書きばっかりを求める野朗共が、今の日本に少なからずいる低俗な政治屋並みの野朗はどこの世界にも居ますね。男なら、奇麗ごとなんか二の次で不言実行だッ!ツーの。ヨオッ!「大阪屋!」一声も二声も掛けたくなります。
話は違いますが一つだけこの島と日本の、12月の人々の動きの違いがハッきりしているのが、キリスト教徒(この島は殆どがカソリックですがね)最大の行事=クリスマスを向かえる姿勢と言うか、心構えがダンチですかね。彼らにとって、一年はクリスマスを中心に動いてますから丁度いま時分あたりになると、土地っ子の顔付きが変るんですよ。他人同士だって道で行き交えば誰彼なく挨拶をするし、みんながみんな何故か親切になったり優しくなったりで、実に良い島だよなあーって思える、そんな季節が今頃から12月25日までは間違いなく続きます。じゃー?クリスマス過ぎた26日からはどうなるんだ??それは、町を上げての盛大な祭りの後と同じで、島の島民全てがしばらくは腑抜け状態になります。あちこちの職場で、大アクビをかみ殺す従業員の姿を多く見かけるのですよ。 ところで、「クリスマスローン」と言うこの時期だけの特別な銀行ローンがあります。クリスマスの贈り物をするために銀行からお金を借りる人たちがこのローンを利用するのですが、けっこう多くてクリスマスDay25日が近付くほど銀行は長蛇の列。返済は翌年の1月から11月までに分割でも一括返済でもすればいいわけで、借金してまでプレゼントし合うこの季節は、毎晩毎晩パーティーが続く夜の楽しみと言い、オイラも勿論、誰だってこの時期のこの島が好きになっちゃうのです。 各リゾートホテルは無論のこと、ホテルロードは言うぬ及ばず島中の公園、各民家が競ってイルミネーションで飾りたて、この季節の夜のドライブは誰だって自然とウキウキしてくるんですよ。
「持ちたる人が持たざる人に恵む」
キリスト教に限らず全ての宗教はこれが原理の第一条で、これを「喜捨」と言う。残念ながらこの精神だけは現代の日本人にもっとも遠い言葉だったような気がしていたのですが、今回の東北大震災が日本国民を変えたような気がしてなりません。同じように11年前、ニューヨーク同時多発テロの時のアメリカもそうだった。あの時からしばらくはニューヨークに限らず全米中で犯罪が激減し、アメリカ中のお巡りさんが暇をもてあましていたそうです。「喜捨」、人間は誰しも、必要以上に物質的に豊かになるに比例して、精神が荒廃する。アメリカに限らず世界中の大金持ちは慈善事業に精を出す。よくよく判っているのですよ。年に何十億と稼ぐスポーツ選手、映画スター、事業家、彼らは莫大な「喜捨」をすることでバランスをとっているのです。
「バランス」
このバランスが悪いと、例えて悪いけど今回のオイラのようにケツを手術して大穴が空くと、手術からすでに一ヶ月も過ぎて尚毎日3回も手当てしていても満足な歩きが出来ないし、歩く時のバランスが悪いから疲れるし身体も精神もアンバランスだから食欲もなくなるし・・・etc・・・本当によくありません。健康が一番であることは本当に「何より」なのですね。
100億円もカジノで無くしたバカ息子と、大震災にポーンと100億円「喜捨」したソフトバンク社長の違いはナンなんだろうね。 同じ大金持ちでもそこまで到達した経緯経過が違うのと、「バランス」感覚を身に付けているいない、その大きな差がこんな事になったんだろう、とオイラなりに考えるのです。なんかしらダラダラ書きましたが、長時間座っておれない状態ですので今回は本当に、スミマセン・・・。 来年もきっと皆様にお会いできる事は何よりの楽しみです。それまでには完全にアソコを完治させております。皆様も健康だけはくれぐれもお気を付けて良い年をお迎え下さい。
では新年一月号でお会いしましょう。
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さて、先月は忙しくて(、??)失礼しました。それでは引き続き、「先住民チャモロ族」の話をさせていただきます。
チャモロ族と言う呼び方は先にも書いたマゼランが今から500年前、世界一周の途中偶然見つけたこの島の先住民が自分達を「チャムルー」と言ってたことからスペイン人が彼らふうにチャモロと言うようになったものだそうで、島の名前も昔の彼らは「グゥハーン」と発音していたそうだが現在の正式名は「GUAM]グアムと言う。が、彼らはそんな呼び方に反発するように自分たちを「チャムルー」とか「チャモロー」とか言う。島を「グゥハーン」と、言い続ける。
私がこの島で暮らしはじめたころ、すでに死んだある有名な人物がいた。エンジェル・サントスという名の男で、当時ですでに60才は超えていたろうか、やはり大柄で白髪混じりの総髪をいつも後ろで縛るポニーテール、顔付きが一見、メキシコあたりの麻薬商売の元締めにも見えるからオイラはあまり好きではなかったけれど地元では中々の人気だったが、敵も多かったと思う。 アクの強そうな面構えで、事実、何事も強引に押し通すから少数民族チャモロを代表する人物としては少々強面だったけれど、適材だったような気がする。いつもアメリカ中央政府(ワシントン)と、グアム政府を相手に対決していた。チャモロ文化の再興と基地に取られた土地の返還闘争、チャモロへの差別の撤廃等々、オイラが昔暮らした沖縄でも同じような問題を同じような輩が指揮っていたが、この島では彼がその代表だった。終いには偉大な先祖(16世紀スペインと戦った英雄マタパン大酋長)を継承するのは俺様だ!なんて言いだして一時は島の知事を目指したが、予備選(アメリカは二大政党制だから民主、共和それぞれのグループ内選挙で正式候補を決める選挙)で負けていた。という事は、現在のチャモロ族の大半は現実をよーく認識しているんだよ。
自分達を虐げている白人(本国政府)とか日本人観光客(観光客にへつらうなんて真っ平御免)この島々はチャモロの王国であり自分たち先祖が苦労して築き上げたチャモロ文化の下にチャモロ人だけで暮らすべきで、アメリカも観光客もイラナイ。狂信的だが貧しいチャモロには人気があった。しかし、現実の彼らはアメリカ政府の保護の下「少数民族保護法」が適用された土地で、アメリカンインデアンとかアラスカンエスキモーと同等の保護を受けている。住む所がなければ住宅を、金がなくて食べ物を買えなければ無料の食糧援助を、電気代も格安か無料、車がなければタクシー同様に政府の車を使う。学校もタダ。失業対策での優遇処置かは知らないけれど政府関係職員はほとんど彼らだし、警察、消防、学校の先生もほとんど彼らで占められ他の民族が入り込む余地はない。兵隊になる若者には試験もなくフリーパス。何しろ他人(他民族)に頭を下げるのを好しとしない彼らのプライドは一級品だ!?500年前マゼランが来たことがきっかけでこの島々(現在のマリアナ諸島)がスペインの世界戦略のなかに否応なく組み込まれていく過程で、一度だけ彼らがスペイン帝国を相手に一斉蜂起した時があった。「スペイン-チャモロ戦争」と彼らは言う。1556年に戦いは確かに起きた。大酋長マタパン以下チャモロ軍2万の大反乱だ。マゼランが来て四半世紀、この島の特権階級だった彼らがスペインを相手に戦いを挑んだのである。あの時代のスペインの国力は今のアメリカとロシアを足した以上の、世界規模の大帝国であったはずだ。彼らにどんな事情が?恐らくキリスト教への改宗を強要するスペインとそれまで彼らの奴隷(彼らより以前にこの島で暮らしていたマレー半島からの渡来人)を懐柔する牧師が気に食わなかったか?しかしスペインから見ればこの小さな島に住む人間はどれも同じで奴隷も特権階級もない単なる原住民でスペインの為に働かせる労働力の対象でしかない。何千年も続いたチャモローの精神文化を歯牙にもかけない強圧的な植民地策にキッとガマンの限界を越えたのであろうか?オッ始めたのである。
それは今から70年前も、極東の小さな島国国家が無謀な戦いを世界相手に仕掛けたのと似て、「ドンキホーテ」の中のセルバンテスが巨大な風車に小さな槍一つで立ち向かったのに似ている。と言うか「井の中の蛙、大海を知らず」と言うより、むしろそこまでの段違いを認識できないこと自体が驚きなんだよ。 島に常駐するスペインの軍隊はたしかに100名に満たないけれど、不思議なのはあの時代この島々には7万人もの原住民が居たと思われる。しかも戦闘的なチャモロ族を含めた現地人をたった100名足らずで、一体どのように統治していたのか?
不思議なのである。
そこに住む民族の違い、民族対立とか人種の違いを見つけそこを上手く突いて統治するのだろうが、見事に統治している。当事のヨーロッパ人はその辺りが非常に巧妙なのだ(その点、我が日本人はその辺りが下手で先の大戦でも大失敗をした)。
しかし現実に、チャモロ軍の一斉蜂起は起きた。多少の近代兵器、鉄砲、大砲を持っているとは言え、数に勝るチャモロ軍に敵うわけもない。追い詰められたスペインは最後の砦(アプガン)であわや全滅か? の時、同じ植民地フイリピンから駆けつけた援軍がかろうじて間に合い、スンでのところで全滅を免れたスペインは、帝国の面子に掛けて峻烈で過酷な反撃を行う。援軍の指揮官は大きく首を傾げる?彼ら(チャモロ)は、一体何者なんだ??一旦帝国に反逆した者に容赦はない。他民族への見せしめもあり徹底的に弾圧する。男は全て捕えられ高さ150センチの石の横に立たされ、一センチでも背が高ければその場で殺された。先にも書いたチャモロ族は大きい。身長150センチは10歳そこそこの子供でもなる。当時のスペインは反逆者には徹底的に無慈悲なのだ。500年前、この小さな島々が何故スペインの植民地になっていったかは同じ植民地フイリピンの存在が大きい。16世紀、インドから東の方角の日本までのアジア一帯にはヨーロッパにも負けない高度な文明を持った多くの国々が存在した。インドのムガール帝国、イラン、トルコ辺りにはオスマン帝国、タイのアユタヤ王朝、中国は明、朝鮮は李王朝、日本は足利幕府以来の戦国時代だった。何れの国々もそれぞれ高度な文化と産物を有し、当時ヨーロッパで珍重された胡椒と共にそれらアジアの物産を一手にヨーロッパに運び莫大な利益を得ていたのが当時のスペインである。アフリカ大陸の南端、喜望峰を回ってインド洋にいたる航路が既にバスコ・ダ・ガマにより開発されていたが、当時スペインと犬猿の仲であったビクトリア王朝イギリスが後押しした多くの海賊たちによりスペインの船荷が略奪され続けていた事情があった。それに代わる新たな航路を探していたところへマゼランが西回り航路を発見したことで、スペインのアジアでの一大拠点であるマニラに集めたアジア諸国の珍品物産を、ガレオン船(中型の高速帆船)で船団を組みマニラからこの島へ運び、そこから一気にメキシコのアカプルコまで。
更に陸上輸送で大西洋側に運び、大型船に積み替え軍艦で護衛させ本国に運ぶ。この新たなルートの確立こそ、この島がガレオン船の補給と乗り組み員の休養と風待ちをする「ガレオン貿易」に欠くことのできない重要拠点となった主な理由である。 そんな過程の中で起こった事件が、スペイン-チャモロ戦争だったのである。スペイン側から見れば単なる「事件」だけれどチャモロ側から見れば大戦争だ。一時はスペイン守備隊全滅まで追い込んだ反乱軍の指導者マタパン大酋長も遂には捕えられ、見せしめで虐殺される。下肢と両手をロープで縛られそれぞれを4頭の牛に引かせた八つ裂刑だ。男の9割が殺され、残った女幼児はすべて売られた。遠くはメキシコ、フイリピンにも多くが売られ、体格が良いチャモロはどこでも貴重な労働力として高値で取引されたと言う。現在この島に暮らすチャモロ族は全てあの時代を境に、先のエンジェル・サントスもGOSRのJoeもだが、純粋のチャモロ族は一人もいない。
今から4000年ほど前に今のサモア、トンガあたりから、何かの事情で(多分、戦いに敗れて)この島に逃れ着いた一族がいた。戦い慣れした民族で、しかも体格が並外れてデカイ。漂着時この島には先にも書いたマレー半島からの渡来者たちがすでに居た。小柄で平均身長150センチそこそこの彼らはこの島での生活は既に1000年が経つ。高度な農業技術と争いごとを好まない温厚な性格である彼らは、戦闘的なチャ彼らは裸族ではない。バナナの繊維から出来た布をまとい一夫一婦制で暮らす。12世紀タイに起こったアユタヤ王朝は彼らと共通の子孫であると言う。星を読み、航海術にも並外れた能力を持つ彼らのこの島での生活は大変豊かで、高床式の家屋と塩を作る高度な技術と湧くようにいた魚を燻製にした肥料を作り、作物を育てていた。
現在のこの島は、新鮮な野菜はどこのスーパーでも売っている。ホンの30年前まで野菜はすべてアメリカ本国からの輸入品でとても新鮮とは言いがたい代物ばかりだったと言うが今は違う。地元で盛んに栽培している。ベトナム戦争後インドシナ半島からこの島への移民が増えるにつれ、彼らが新鮮な野菜を作るようになったからだ。因みにチャモロ族は畑仕事が苦手だ?その人たちこそ、5500年前この島にたどりついた人たちと同じDNAを持つ彼らの子孫たちなのである。4000年前、東から来た戦闘的なチャモロ族によって彼らは奴隷となり、多くがそうした畑仕事に従事した。そして550年前、マゼランが偶然来た事でこの島の支配者が代わる。世界帝国スペインにとって非常に利用価値が高い島となっていった。チャモロ族自身スペインとの戦争で民族自体が滅亡する。今は純粋なチャモロ族は一人も居ない。すべて混血だ。
明治28年(1886年)アメリカとスペインが戦争をした「米西戦争」での勝者アメリカはこの島をスペインから譲り受け、アジアに目を光らす戦略的にも重要なアメリカの領土となって行く。その後の太平洋戦争中の2年7ヶ月間は、真珠湾攻撃のわずか3時間後にサイパンから攻め込んだ日本軍に占領されたことで多くの地元民が被害を受ける。現在は平和な、南西太平洋上の一大観光地となっていて日本人を中心に年間100万人も来る。変わらないのは温暖な気候と美しい海と、その時代時代に生きる人々の営みだ。5500年前マレー半島から来た人々に始まり、東から来たチャモロ族、そしてスペインが来て、アメリカも来て日本も来た。多くの民族が入れ替わり立ち代り、訪れては去って行った。淡路島ほどの小さな島ではあるが悠久の歴史と多くの民族が足跡を残している。
アメリカ領グアム島。
これからも永遠にその時々の民族がそれぞれの足跡を残して行くのだろう。オイラもその一人なのだね。
SU-

この辺りの島々の先住民をチャモロ族と言う。この島(グアム)だけで現在6万人が暮らしている。ロタ、テニアン、サイパンなど他の島々を合わせると10万人を越えるらしい。 グアム島では4人に一人が彼らだが他の島々ではほとんどが彼らだ。ハワイ諸島も州都があるオアフ島には先住民のカレカ族は少ない。オアフ以外の島々ではこの島々と同様に彼らが多い。先の横綱武蔵丸、曙、大関小錦などが彼らだ。体格がずば抜けてデカイ。
1521年3月6日、フェルドナンド マゼランがこの島を発見!と言うより予定のコースからだいぶ北に外れて西に向かってフラフラしていて偶然この島を発見。食料、水も尽き果てそこいらじゅうの革製品を鍋で煮立ててまでして飢えをしのいでいる幽霊船寸前の状態でたどり着いた。1521年という時代の日本は?応仁の乱以来の戦国時代の始まりに全国が麻、と言うよりムシロのように乱れた群雄割拠の時代である。後に美濃一国を攻め取る若き日の道三が、油売りをしながら虎視眈々と美濃の守護代斉藤家の内紛に付け込んでの簒奪をめぐらしていた時代、そのあと次々と生まれる戦国時代の千両役者たち、織田信長、上杉謙信、豊臣秀吉、徳川家康などの少し前のこの年12月8日に同じく戦国の大看板、武田信玄が生まれる。
マゼランは人類最初の世界一周者として歴史に名を残すが、この島を離れてわずか2週間後、今のフイリピンのセブ島で死んでしまう。セブの先住民と争いとなり戦闘中、首に毒矢が刺さって、、41歳だった。この島の南、太平洋側にあるウマタック湾、湾とは名ばかりの鄙びた入り江(マゼラン上陸記念碑がある)に、旗艦ビクトリア号はじめ3艘の木造軍艦で先にも書いたようにフラフラ状態で入港した。その一年半前に総勢237名の乗組員と5艘の軍艦を、時のスペイン国王カール5世から託され、西回りの世界一周を試みてスペインを大西洋に乗り出したのが1519年9月18日。途中余りに厳しい航海に耐え切れない一部乗組員の反乱と、僚艦の座礁とで2艘を失いながらも183名がこの島に上陸した。
ここの先住民は裸族であった。男女とも手足長く女性は何れも髪を長く伸ばし、その髪をまるで西洋の貴婦人が纏うショールのように腕に絡め、乳飲み子を長い髪の毛でくるみ、まるで毛布のように使う。男は腰に何も纏わずただ男のシンボルの先には僅かにナイフの鞘のような袋状のモノをさしてある。我が隊長(たぶんマゼランであろう)は島の男3人としきりに何かを交渉しているが、まるで大木のてっペンを見上げるようにしている姿は、少年のように見えた。彼らは我々の誰よりも背が高く、手足長く肌の色褐色で瞳は黒い。子供は大人に比べてスペイン人のように肌が白い。さて、隊長殿がいったいどのように話をつけたのか?我ら183名の乗組員全員が3日掛けても食べきれない食料を、彼らが日常に集団で食事に使う大きな広場に運び込んでくれた。よく乾燥させた流木を大量に集めて燃やし燃え尽きたオキ火の上に、椰子の葉に包んだ新鮮な魚、海亀、大トカゲ、大コウモリなど(この時代、 ノブタ、猪、鹿、水牛などはまだこの島には居ない)を丹念に重ねてすべて砂で覆う。この料理方(砂蒸し)は今までに立ち寄った島々すべてで行われておりマゼラン一行がこの島に到達(漂着か)するまでの1年半、途中立ち寄った島々の先住民から同じようなモテナシを受けている。 当時の船には食料も水もそんなに多く積めるものではない、食料は無論、水も腐るため、大方が現地調達だ。島を見つけては立ち寄り新鮮な水、食料を確保した。当時は生きた動物(無論、食料にする)を積み込むのは当たり前田のクラッカー!久しぶりに、、、!?で、、、、ま、それはさておいて先を急ぎます。
しかし、「不思議?」なのは、立ち寄った先々の島々の先住民から必ず歓待を受けた。まるで、遠来の友人を大歓迎する如くである。時に乗組員の中には余りの過酷な航海に耐え切れず途中脱落して先住民と一緒に暮らす者も出てくる始末だった。横井さんも、そうだあと150年前なら先住民の女と所帯をもってこの島に溶け込んでいったんだと思うね。オイラだってそうするよ!(随分、、力が入ってるジャン?)この時代、中世14、5世紀頃の世界人口の総数は凡そ3億人らしい。今は60億だ。当時の日本は2千万人。中国はすでに8千万人も居た。当時から中国は人が多かったんだ。江戸の町(東京)には1790年ごろに80万人住んでいたという。当時では世界有数の大都会なんだ。それが今は1200万人だよ!あの時代、人口密度からいっても今では考えられないくらいにこの地球は大きかったと思う。地上が丸いなんて概念すらない、地球と言う天体に住んでいること自体認識していない時代である。人口も今の20分の1、物理的にも、飛行機が、新幹線があるわけじゃないから移動する手段の問題にしろ、観念的にも今とは比べ物にならないくらいモノ凄く大きく広い感じたんじゃないかなあー、当時は。
高一のとき、中学の親友と二人して秋田に行ったことがある。新幹線が来年開通するという時代の東京までもがとにかく遠かった。そこから更に奥羽本線で秋田までがこれまた遠く、浜松から秋田までまる二日掛りで行った。たった50年前でも当時は浜松から秋田まですら、もの凄く遠かった。500年も前のあの時代、この地球の大きさが如何にデカかったか想像がつくかい?
さて、あの時代の航海者または旅人が各地、各島で何故大歓迎されたのか?それは、種の生存に関わるある重大な問題が、彼ら(航海者、旅人)によってその隔絶した地域で暮らす上での最大の難題を一気に解決してくれる理由があったからなんだ。人間も小さな集団で世代を重ねるとホモサピエンス(雑食性哺乳類)特有の血の濃くなるゆえの弊害が出る。「人口逓減の法則」というある特定の地域、島々で隔絶された環境で暮らす人間が、その数にも比例するが、最小では5世代を重ねることが出来ない。人類にとって血が濃くなる事は致命的な要因なのである。それを解決する唯一の方法は、、、新鮮な(遠い)DNAを入れること。即ち新鮮な男の種が必要なのだ。遠いほど良いのである。アラスカに暮らすエスキモー然り、アイスランドに暮らすヤップ人然り、モンゴルの大平原に点のように暮らす人々も然り、昔は一族の未来をかけて旅人と言うか放浪者を待ち望んだ。一族の女を提供することで異種を得る。
今の人間たちと違い当時の人たちはただ一点の目的だけで00をした。00とは快楽に耽るなどはなく丈夫な子孫を残すための崇高な行為なのだ。(そのあたり昔のカルロスとは大違いだ!) 異種を求めて時に命がけで遠征する。人間がボチボチ移動し出す中世以前も、ときに異種を求めて他の地域に進入した。古代の戦争目的はほとんどが人間狩りを第一の目的としていたのである。労働力の確保(あの時代は人間が唯一の労働力だった)、、、。抵抗するものは容赦なく殺すが従順な者は奴隷にして働かせ、やがては同化させる。今でも残る各地の身分階級制度は、そこら辺りから発生し発展していったものか?実はこの島にも厳然と身分制度があった。身分が違えば結婚も許されない厳格なものだったらしい。この島の支配者は冒頭のように体格が大きい。ハワイの先住民カレカ族同様に男女ともである。引き換え最下層にいた人々は体格が小さい。そして支配者と奴隷の間にはその双方の血を引いた混血がいた。直接奴隷を監督指揮する役目の中間層だ。この3段階の身分制度は、スペインにもある貴族制度にも増して厳格であったそうだ。凡そ5500年前、今のマレー半島あたりの一部族が何かの事情(戦争か疫病の蔓延か?)小さな船に分乗して途中人が住む島々地域では定住することなく、まるで木の葉が大海をさ迷う如くして当時は無人だったこの島に漂着した。5000年後に漂着したマゼランと同じように。 集団で故国を離れたにしろ、お互い小さな船に分乗して6000キロも離れたこの島にいったいドレだけの仲間、家族がたどり着けたのか?何百人という単位ではとてもなかったと思う。苦難の連続のそれ以上の苦難。計り知れない苦難だったろう。
当時の彼らの体格は非常に小さい。1908年この島の北で発見された化石化された人の大腿骨が年代測定では凡そ4500年以前の成人の骨であるが、推定身長は150cm足らずである。一方、年代が違うがこの島の南で発見された人骨は190cmもある成人である。南北54キロ足らずの小さなこの島で、である。ある時代から忽然と体格が際立って大きい人間が暮らした痕跡が多々発見されるようになる。マゼランも言う。この島には明らかに違う複数の人種が居た。小さい人たちは奴隷で、その中間にたぶん奴隷と支配者との間に生まれた混血だ。支配者が道を歩けばその階級以外の人々はすべて道を開けてひざまずく。支配者は船のオーナーであり網の所有者であり土地の所有者で絶対的な存在である。
では、いったいいつごろ、ここの島にそのような階級社会が生まれたのか?ここからはオイラの完全な想像であるが(するとここまではナンだったんだ?)、まァー、、ここはあまり難しい事は聞かないで書いてるオイラの腰の骨を、、、じゃなくて話の骨を折るようなことを言わないで頂きたいんだがね。(笑)さーてと、、、じゃー、、こうしてモラエンデショウか皆さん?お陰で8月もそうだったけれど9月も我がG.O.S.R.はほんとうに忙しくてですね、この忙しさの原因が、果たして?巷間言われている猛烈な円高が原因であることなのか?それとも、、情けない総理大臣ばっかり続いた失われた5年のフラストレーションが弾って!?じゃない、溜まって、一丁スカッとしたい遊び(日本人にとって実銃射撃は遊びでエエのです!)そ、れ、と、か4200mの高さから落っこちるスカイダイブも最近は結構な人気です! それにしても何だか?日本人観光客の皆さんの明るさに、正直オイラは驚いております。いえ、それが悪いってんじゃなくてですね、何と言うのか、、、タクマシイって言うのか?兎にも角にも皆様が明るく射撃を楽しんでいらっしゃいますご様子に、正直、、ホッとしています。。。。さ、そんな訳でお陰様で忙しくてですね(ちょっとヒツコイ、、)大変申し訳ないのですが、10月号はこの位にさせてもらってですね。続きは11月号と言うことでご勘弁をお願い致します。
SU-

噂をすると、、来るッ、、だからなるべく簡単に書こうと思う。最後にアレがこの島を襲って、、、、随分久しい。ニューヨークのツインタワーに、乗っ取られた旅客機が突っ込むという大惨事(同時多発テロ)が発生。その後のアフガン侵攻とイラク戦争へと続く激動の21世紀の始まりにこの島を襲ったのが何十年に一度の「アレ」であった。正に、悪夢のような奴だった、、、、あれから10年が経つ。
お陰で今は島中の木々が鬱蒼と茂り多くの日陰を創り島中が緑で覆われ、見た目も美しく緑が濃いと夏も涼しい。事実、真夏の東京でも公園は木々があるだけで3、4度も気温を下げるのだそうだ。ところが、一旦アレが来て、、まるで、、怒り狂った「キングコング」のように島中を引っ掻き回し出したら最後、島民はなすすべなくヒタスラ怒りが収まるのを待つしか方法がない。なんともスザまじいアレの暴力に勝てるものなんか居ない。
日本では風速17mを越えると「台風」と言う。ここでは17mどころか、風速32mまでは「トロピカルストーム」と言う。何だか美味そうなフルーツバスケットのような名前で呼ばれるが、、、日本なら風速32mは立派な中型台風だ。そのフルーツバスケットが「Typhoon」タイフーンと呼ばれるようになるのは風速33mを越えてからで、先にも言った最後のアレは確か、、93mだった!あの時この島が受けた被害の大きさは、過去住民の記憶にないほどの物凄さだった。当時の米国大統領ブッシュはこの島を激甚災害地に指定したんだ。
あるマンションの駐車場のすべての車は風で押されて片隅に追いやられ、一番外側の車が誰かの車の上に乗り、そのまた上に誰かのが乗り、車の三段重ねができていた。信じられないようだが事実である。確かにこの目で見たから間違いない。見た瞬間、オイラの背筋が凍った。島中の電柱は一本残らず引き倒されボキボキに折られたりした。走行中の大型コンテナ車が猛烈な烈風に煽られコンテナごと横倒しのまま道路の反対側の誰かの家の玄関にピッタリ張り付いた。コンテナはその後もしばらくそのままで、あの家の者はいったいその間どこから出入りをしてたのか?玄関をふさいだコンテナには誰かの引越し荷物がピアノも含めてギッシリ詰まっていたというから恐ろしい。この島には木造の家屋は一つも無い。過去には有ったんだろうが今は無い。同じ常夏のハワイはほとんど木造家屋である。だが、ハワイ諸島がある位置は緯度的に東京と同じぐらい北にあるため、赤道に近い熱帯生まれのアレらにはチーと遠すぎて手が届かないのであろう。
タイフーン、サイクロン、ハリケーン何れも風速33mを越えるとそう呼ばれる。最近までアレらにはすべて女性の名前が付けられていた。キャサリーンとかパメラ、マリリン、アイリーンと言うように。 それが、、、女性差別とかで、今はいろいろな名前が付く。オイラには何となくアレらに女性の名前をつけていた先人たちの気持ちが分かるような気がする。あれほど強烈な暴力を振るう、まるで「怒り狂ったキングコング」のようなスザまじい嵐には、セメテ女性の名前を付けることで少しでも穏やかに済んでくれればいいなぁー、の希望が多分に込められて命名していたのだろう。
余談だが、アメリカ映画「キングコング」子供のころから何回となくリメークされてその都度見ているが、あの映画のヒロインは必ず金髪美女だ。暴れまわるキングコングを鎮める生贄とされるが、キングコングは何故か?そのヒロインを好きなってしまう。そうとは知らないヒロインはただひたすらキングコングから逃げ惑うのだが、、、。そんなキングコングの純情さにつけ込んだ悪い奴が一儲けしようとニューヨークに連れて行き見世物に、、、。やがて大暴れするキングコング、、だが、最後は人間によって殺されてしまう。ナンだか悲しい結末に、子供心にどうして都会なんかに行ったのか?なんで悪い奴に簡単に騙されてしまったのか?あの映画を見る度そう思っていた。南海で生まれるタイフーンとかサイクロン、ハリケーンが時々現れては猛烈な暴力(風による)を振るう自然現象に恐れおののく人間の姿と、必ず付けた女性の名前と、時に長躯して大都会を襲い大変な被害をもたらす事と言い、空想上生まれた「キングコング」とは、実はこの熱帯特有の自然現象がモデルではないのか?私は「キングコング」を生んだ作者を知らない。多分ヨーロッパ人だと想像する。ヒロインが金髪美女であること、ヨーロッパでは緯度が高すぎてアレらを見ることはまずない。晩年のへミングウェイのように南海で暮らして初めて見るアレの猛烈な暴風雨に、、、キッと、ド胆を抜かれたことだろう。 台風が慣れっ子の日本人のオイラでさえ、10年前この島で出会ったアレの、あまりのスザましさに恐怖した経験は未だに忘れない。あの時のアレは今でもこの島で語り草だ。
因みに最後のアレの名前は「ポンソナ」、、韓国語でいう可愛いとか小さな花の意味らしい。なぜ韓国語が付いたかは誰も知らない。普段やさしい韓国女性がいったん怒ると手がつけられないほど大暴れするのは本当だそうだからか!?この辺りの太平洋でTyphoon「タイフ-ン」と言う呼び方は既に16世紀ごろからヨーロッパ人の船乗りたちが言っていた。ギリシャ語のTyphon「旋回」からきている。日本で言う「台風」と言う呼び方も実はこの呼び方の当て字からきている。日本で台風と言うようになったのは明治に入ってからで江戸時代はもっぱら「大風」と言っていた。西大西洋ではハリケーン。インド洋ではサイクロン。オーストラリアではウィリーウィリーと言う。台風OO号なんて番号での呼び方は如何にも日本らしい。少々塩ッ気が無い(味気ない)ような気がするのはオイラだけだろうか?いずれにしろ!毎年今頃はアレが来ないことを切に願うのである。
それにしても、日本が被った今回の東北大震災に比べれば、アレなんか月とスッポンだ。だけれど、あの時、一ヶ月以上にわたり電気も水もなく食料さえ不足した生活が如何に大変かは、経験したものでないと分からない。グアムの人たちが今回の大災害にいち早く反応したのは(この3月号でも書いた)やはり10年前の悪夢を経験したからこそ、我がことのように素早かったのだと思う。我が身が一度でもそんな経験をすれば、そんな経験をしている人たちの痛みがほんようによく分かるのだ。それとあの時、日本の多くの皆さんから受けた援助がどれほどこの島の人たちを勇気付けたか、、、、、決して忘れていないんだ。 早く、本当に早く!被災地が復興することを願っています。
SU-

御歳86歳になる元陸軍大尉、当時グアム島戦友会団長であった山下さんの声が鋭く響いた。グアム島守備隊第29師団旗下第38連隊(奈良県)のほんの僅かな生き残り(本人が言う)である山下団長は、斜め後ろから見ても心なしかその長身が小刻みに震えていた。11年前の2000年、終戦記念日の前だったか、、、グアム島中部東海岸アガット村の太平洋が一望できる小高い丘の上にある連隊司令部跡でのことだった。旧グアム島守備隊関係者凡そ30名が第55回大法要のため来島していて、当時の私は地元の旅行会社で働いていた関係で彼らと知り合ったのである。「グアム島戦友会」この島で戦った旧日本軍20879名中生き残った1700名弱の元日本兵で組織されたこの団体は、あの日(ほぼ玉砕)から数えて55年目の大法要を営むべく、この島を再び訪れたのである。高齢(平均83歳)とともにあの年(1944年)の凄惨な戦いの記憶が本人達の加齢につれ遥か彼方へと消え去る寸前の大法要であったと思う。
私は3日間彼らと過ごした。辻軍曹、吉田軍医中尉、山下陸軍大尉、三ノ輪曹長、高橋伍長、渡辺軍曹、その他大勢の元日本兵はとても80歳を越えたと思えない元気な老人ばかりだった。
グアム島(大宮島)当時ダイキュウジマと呼ばれていた日本軍占領下のこの島は、1944年7月21日、サイパン島の日本軍を玉砕させた勢いそのまま、55000の海兵隊を日本軍が待ち受ける前面に強行上陸させた米軍は、翌8月11日には早くも日本軍守備隊司令官小畑中将自決で組織的な戦闘は終結するもなお島の各地で敗走する日本軍と追い詰める海兵隊とが死闘を繰り広げたのである。 私は3日間、元日本兵と第一ホテル(今はフィエスタホテル)の中の焼き鳥屋で連夜酒を酌み交わしながらあの当時の模様をいろいろ聞いた。吉田軍医から著書「慟哭の島」をいただき、軍医の目から見た8ヶ月に及ぶジャングル生活の模様を。戦後ふるさと高知県宿毛市の市長を長く勤めた渡辺軍曹からは仲間13人とともに必死で生き抜いた体験をつずった「死んで堪るか!」の著書。山下大尉は、「学校出(陸軍士官学校)のワシがどうして生き延びてしまったのか?」(本人が言う)その顛末を。辻軍曹はその剽悍な性格そのままのジャングル逃避行生活を。その他の元日本兵からも、、、。中々打ち解けない彼らが最後の夜の明日は帰国という日に堰を切ったように55年前の地獄の戦場だったこの島の日本軍が壊滅していくさまを克明に語ってくれた。戦いが始まる前、上から下まで(一部の守備隊上層部には既にサイパン玉砕の情報は当然入っていた。)その他現場指揮官以下一般兵の誰もが楽観していたらしい。
さあー来い!鬼畜米兵!志気もすこぶる旺盛で、弾薬食料の備蓄は豊富、戦車(南方戦用の軽戦車35両)戦闘機(ゼロ戦も交えて20数機)その他の野砲、燃料がなく動けない艦船から外した速射砲その他重機関銃等の重火機もソコソコ有る。そして何より彼らは歴戦の兵だったのである。 3ヶ月前まで中国北部黒龍江省で対ソ連に備えた関東軍の中でもずば抜けた強兵部隊で、ソ連とは実戦こそしないものの実戦顔負けの演習に次ぐ演習と、毛沢東率いる中共軍とは連日猛烈な戦いを繰り広げていた部隊、イワユル戦い慣れした部隊だった。未だ戦ったことがないが米軍とは、大部隊大人数でひた押しに攻めてくるだけの極めて単純な戦法で、中国で日夜実戦した戦法をもってすれば「米軍恐るに足りず」そんな雰囲気がグアム島守備隊全員に漲っていたらしい。
しかし、イザ戦いが始まってみれば僅か20日足らずでサシモノ強兵部隊が跡形もなく、まるで鉢の中ですり潰されたように壊滅してしまう。実際アッと言う間だったらしい。生き残った彼らが言うには戦闘が始まって一段落するまでの凡そ2週間、腹が減った感覚も眠った覚えもなくただヒタスラ戦っていたらしい。 昼夜の別なく想像を遥かに越えた米軍の猛攻撃は、中国での中共軍相手の戦いの比ではない、今風に言う。「想定外」だったのである。
二ミッツ提督(米太平洋艦隊指令長官)直々の200艘からなる大艦隊からの艦砲射撃とすでに陥落させたサイパンから飛来する爆撃機による絨毯爆撃(1メーター四方に一発)艦載機(航空母艦から発着する)による機銃掃射を凡そ一ヶ月にわたり昼夜の別なく行った。その規模はサイパンでの痛い教訓から(日本軍の反撃による米軍側に多数の死傷者が出た)凡そ3倍に及んだ。尚且つ周到な囮上陸作戦まで行ったらしい。その作戦とは一旦上陸すると見せかけ日本軍がジャングルの奥深く巧妙に隠した飛行機、戦車を配置に着かせてから上陸せずにUターンさせ再び艦砲射撃と艦載機からの攻撃でそれらの日本軍の装備を徹底的に破壊した。結局日本軍は丸裸にされたうえ多数の死傷者を抱えたまま、自軍の3倍の敵上陸部隊と戦わざるを得ない状況下であったらしい。すでにサイパン、テニアンで実際に日本軍と戦って経験を積んでいたのは米軍だったのである。
後世あの戦争を振り返って多くの人が言う。もう少し早く戦いを、せめて一年早く止めていたら(潔く降伏していたら)多くの有能な若者と無垢な国民を死なせずに済んだ。事実、もし1944年8月に戦争が終わっていれば、あの悲惨な沖縄戦も、無謀な特攻も、長崎、広島への原爆投下も、東京初め各地の大都市への無差別爆撃も、ムダに沈んだ多くの艦船の乗組員の命も、、もし、もう少し早く終わっていれば、と。誰しもが考えるのだが、、。
あれからすでに65年という歳月が流れ、11年前あの3日間を過ごした老人達のほとんどが最早この世に居ない。あの日この島の北へ追い詰められた多くの日本兵は盲目的にバンザイ突撃を繰り返し、皆若くして彼岸に渡った。その中に奇跡的に命を永らえた人たちが居た。「グアム島戦友会」、、、万に一をくぐってきた人たちである。九分九厘の死地を生き延びた彼らの一言一言は、あれから11年過ぎた今でも鮮明に蘇る。近頃日本の政治家の羅列だけの言葉遊びにも似た一言とはまるで違う圧倒的な重みがあった。 あの時代、あの戦争を遂行した軍部及び財界及び言論及びマスコミの各界の多くの日本人は、一部の者にだけその戦争責任を擦りつけ、戦後手のひらを返したように今日まできてしまった体質が今の日本人の体質となり日本国の質となり、正に今、目を覆いたくなる低俗な政治家を生んでいる背景だと私は思う。 真の指導者は、祭りで担ぐ神輿にも似たアマテラス者であり恥と侠気を併せ持ち、人一倍清廉潔白であり獅子のように気高い崇高な人物でなくてはならない。
「時代は繰り返す」と言うが、今の日本が65年前のあの「混乱状態」に似てはいないか? 「SU-さん」(私は当時もそう呼ばれていた)私が生き延びたのは、と、山下大尉が言う。キッと神様から、恨の一言もなくここで死んで逝った多くの者たちの悲しみを一身に背負い荊の道を私に歩ませる為に生かされたんだよ、と。でなきゃー学校出が生き延びるなんて、、まったくなァー、「世間に顔向けできない大悪党と一緒だよ」と、ポツリ言う。
連隊突撃「軍旗を焼いた後、連隊長以下の残存兵で行う最後の総突撃」の露払い役を務めて末長連隊長(死後、少将)の前を弾除け突撃し、左足大腿部と右腹部に被弾、意識混沌状態を米兵により助けられ、自殺防止を施されハワイに送られ終戦後帰国。戦後は牧師となり長くグアム島戦友会の世話役を務め、昨年97歳で永眠(合掌)。キッと今頃は孫のように若い連隊長と好きな酒を酌み交わしているのであろう。8月は私にとっても忘れる事が出来ない月なのである。
SU-

グアムの7月は学校が夏休みということだけで道路が随分スムーズだ。何故ならあの「King of traffic」道路の王様である「スクールバス」が走らない。
アレは確かに王様だ。朝夕のラッシュでアレが自分の車の前にいようものならどんどん追い越す。何故ならところ構わずあのデカイ図体を止めて子供達を乗せる。実際は「スクールバス専用のバス停」に止まるんだが、先を急ぐ朝の貴重な時間にはそんな風に感じるのだ。
子供達がバスに乗り降り(登下校時の日に2回運行)しているあいだ、どんなに広い片側3車線(グアム最大)であろうと全面(対抗する車線まで)全車両がストップしなければならない。もし、ウッカリ走ろうもんならそのバスはおろか、そこいらじゅうの車から猛烈なブーイングを受ける。皆さんもレンタカーを借りる際はその事をくれぐれも注意されますよう。
一日2回、アレが動き回る朝夕は同方向のアレと対向車線から走ってくるアレらが、いきなりストップランプを赤々点滅させたら最後、朝は子供達がバスに乗って座席に着くまで、下校時なら子供達がバスから降りて悠然と道の反対側に渡リ切るまで、ジィーィーと我慢の子でないといけない。
G.O.S.R.は9時のお迎えが最初だから朝のラッシュアワーは過ぎているけれど、12:30お迎えがチョイ遅れたりして午後1時過ると下校時のアレが走り出す時間帯にぶつかる。G.O.S.R.のあるこのあたりの田舎道は片側一車線なのと走る車も少ないからついつい追い越すのだが、なにせ田舎道は全線が追い越し禁止、運悪くお巡りさんに見つかれば当然罰金だ。私はこの5年で3回捕まった。罰金は$40。これって日本と変らないの、、かな?何しろ15年以上日本にご無沙汰しているからね。さて、話をあのスクールバスに戻そう。実はこのバスの運転手は中々の男前が多い。男前っても美男子って意味ではなくイワユル男らしいマッチョが多いのだ。この島では小学校から高校までほとんどの子供はスクールバスで通学する。我が家の息子達も高校まで利用していた。悪戯盛りを沢山乗せて走るからさぞ大変な仕事だとは想像する。しかしそんな悪戯坊主たちが一旦バスに乗ると、皆借りてきた猫みたいにおとなしい。バスの中でふざけないし喧嘩もしない。ましてタバコなんか厳禁だ。みんな実におとなしい良い子に変身する。何故か?それは運転手が怖いのだ。この島ではお巡りさんと学校の先生、消防士、スクールバスの運転手、この4人に逆らう悪餓鬼は一人も居ない。仮に誰かがバスのシートに落書きしようものなら運転手にトコトン犯人が判明するまで追求される。
そして捕まったら最後、その子の親にまで責任を取らせる。シートの張替えと休業補償、オマケに親子ともども、運転手にコンコンと説教されるのが落ちだ。さすがの悪餓鬼共も合った話ではない。自分が受け持つバスと、乗せる子供達の安全を最大限に優先する誠に責任感の強いスクールバスドライバーは、お巡りさん、学校の先生、消防士と共に、誇り高い仕事の一つなのだ。
「子供の躾は家庭と地域でするもの、学校に非ず」 まったくその通りだと私は思う。小学校入学時のまだあどけない幼児のころから高校3年生の、もう半分大人になる年頃まで、毎日毎日スクールバス内でマッチョなドライバーによって、他人に迷惑になる行為はしないと言う躾を受けるのだ。
「三つ子の魂百までも」こちらの子供は実に礼儀儀正しい、無論大人もだ。これが地域から受ける躾なんだろうと思う。日本語では読んで字の如く「身に美しい」と書く。日本語漢字の美しさが際立つ文字の一つだが、どうも最近、質が著しく悪い日本の政治家諸君!一度こっちのスクールバスに乗ってみたら!?
SU-

6月に結婚する花嫁は幸せになるということでグアムもやはり多いらしい。こちらの結婚式は、教会での厳粛な式は式としてその後のパーティーはハチャメチャに騒ぐ。そのパーティー一切を引き受ける専門会社がいくつかあり何れも6月は特に忙しいんだそうだ。日本でその手のパーティー(披露宴)といえばホテルとかで行なうと相場が決まっているようだが、ここは違う。
第一は自宅の庭、と言っても新郎新婦の育った両親の家で行なうのが大半で、もしマンションとかアパートだったら公園を借りる(政府の公園管理局に届けて場所代も払えば誰でも借りれる)大型テントの下では何十というテーブル何百という椅子が用意され本職のバンドが入りそれは盛大に行なう。一族郎党は言うに及ばそれぞれのず友人知人隣近所がワンさと押しかけ飲めや踊れやの大騒ぎをするのが慣例なのだ。費用も相当嵩むと思うがあまり気にしない。招待客のご祝儀もチャッカリ計算してのパーティーなんだそうだし何よりこの島の人たちは派手好きだから、パァーとやる。この島では生活は、私の15年の経験でもこれといった楽しみが他にないからみんなで集まり楽しくしゃべり、飲み、歌うのが大好きなのだ。ポリスマンたちも制服のまま(勤務中だと思うが?)パトロールカーで駆けつけてくる。同じ参加者が酔っ払って車で帰ろうがお構い無しだ。(笑)
昔、我々家族がここで住みだしたころ女房が結婚式のパーティーに招待された。まだ子供だった二人の息子共々一家て出かけたんだが、なれない道に迷って迷ってやっと目的のパーティー会場に到着。そこはもの凄い人がいてドンちゃん騒ぎ、なれない俺達にみんなが飲み物だー食べのもダーをとって来てくれたりでみんな親切でいやな思いはみじんも無く、誘われるままにダンスまで楽しんでいい加減お腹も満腹になりそろそろご祝儀渡して帰ろうか?っとなって始めて気がついた!なんとそのパーティーは誕生祝いの会場だったんだ。(笑)気が動転した俺達はその会場で親しくなった「見知らぬ人」に、これこれで会場を間違えてこんだけ食べて飲んでしまった。参加費用は当然払うからと借りてきた猫みたいにしてそっと打ち明けた。それを聴いたその親父ッいきなり腹をかかえて大声で笑い出した。ガッハハハハッーとあたり構わず大笑い!ますます小さくなる俺達。 ひとしきり大笑いして見尻に泪をためたその親父。満面の笑みで、「いいんだいいんだそんな事、俺の親父や叔父は日本の兵隊さんに命を助けられているんだ。福井衛生兵さん、あんた知ってるか?」と来た。悪いけど時代が違うから知らない、と俺。そォーかー、、、と親父。(後日、いろんな方法で福井衛生兵を探すが、とうとう福井さんは分からず古屋衛生兵という人がこの島で戦死をされています)無論他に沢山の衛生兵は居たとはおもいますが、あの時の親父の発音からして福井(フクーイ)さんと古屋(フルーヤ)さんは似ていますが果たして同一人物かは分かりません。
で、話を戻しますが、実はその結婚式のパーティー会場もその同じ村で行なわれており、今夜は2箇所掛け持ちだァーの村人も多く居た。結局あの日はただ飯タダ飲みで、おまけに目的のパーティー会場ではさすがに一口も食べなかったというより食べきれなかったので、主催者が我々一家が一日でも食べきれないほどの食べ物をお土産に持たしてくれて、お陰でチャモロ料理を堪能した2日間でした。
「Junebride]結婚をつかさどる女神エナー、ギリシャ神話では最高の位と力がある神だそうです。6月はその女神が最高に力を発揮する月だそうですが、はたして?結婚ばかりが人生じゃない!と考えるのは私だけでしょうか皆さん!
SU-

G.O.S.R.がある「グアム島南部」のこのあたりを上空5千メーターから見下すと、一辺が約8キロ四方の丸いクボミに見えます。夜空に浮かぶ月の表面に無数にあるクレーターと同じような丸い窪み。あたかも古代に隕石が衝突した後のように巨大な窪地なのですが、実はそれは巨大な噴火口を取り巻く外輪山で、直径8キロあまりあるカルデラの縁なのです。
と言うことはグアム島は火山島?正にその通り、ただ7,500年この方噴火はしていなく死か活かの定義にあてはめれば死火山に属するんだそうで、噴火中か過去2,000年以内に噴火した山はすべて活火山と定義するんだそうですね。(知らなかった!)すると我が(静岡出身だモンでつい力が…)「富士山」は立派な活火山で東北震災以来言われている富士山大噴火が起きてもオカシクナイ状況には間違いないのだそうです。 富士山は、ガキのころは浜松市内のちょっとした高台ならどこからでも見えていた。いつも暗くなるまで遊んだ城址公園から、学校の正面にあった。
当時浜松に開局したばかりのNHKがあった牛山から、長じて高校生のころにも真冬のデパートの屋上(ミニ遊園地があった。寒すぎて誰も居ない)から悪ガキともの溜まり場で、タバコに咽びながら眺めた冬の富士山は、刀の切っ先のように鋭く見えた。
今は市内のどこからも見えないね。戦前までなら東京中はもちろん宇都宮辺りからも見えたそうだね。3,776mと言うのは、スカイツリーの6倍の高さだからね。ところがオイラ、まだ一度も登ってないんだよ、富士山にはね。そしてもう今更登りたくは無いけどね。歳喰って登るのは身体によくないらしいから。 さて、新潟県の糸魚川辺りから長野県、山梨、静岡を通って伊豆諸島へさらに南の小笠原諸島、さらに硫黄島の下を南下してマリアナ諸島へと続く所謂「富士火山帯」。実は我がグアム島がその南の終着地で、これより南には富士火山帯は延びていません。
行く手を阻むように1万米余の深海「マリアナ海溝」が横たわり、さらにはその地下深くフィリピン海プレートと太平洋プレートが重なりあってユーラシアプレートの下に沈み込んでいるのです。 グアム島は過去、度々巨大地震に見舞われているのも東北大地震と同じ形の地震発生メカニズム上の故なのだそうです。「長い時間掛けて大陸プレート(ユウラシアプレート)の下に沈み込んだ海洋性プレート(太平洋プレート、フィリピン海プレート)が、ある時期に反発して起きる周期的地震」そして我が(住まわせていただいて16年目なりますモンで…)グアムは実は日本一の「富士山」とは有史以来非常に仲の良い関係にあり、お互い25万年前、今言う富士火山帯の黎明期の大活動期に、方や地上にあった一つの小さな噴火口から大量のマグマを噴出させ巨大にせりあがった山が富士山、方や同じ25万年前海底凡そ3千米にあった小さな噴火口から大量にマグマを噴出し、終には今日のように海面に顔をだした海底火山だったグアム島。 お互いは今でも地下深く密接に連動していて、その付き合いの歳月たるや何と25万年(私と母ちゃんとは30年…どうでもイイキニ!?)。仮にもし!!巷間言われている富士山大噴火が起きたとしたら、直径8キロの巨大カルデラ内のホボ真ん中に位置するG.O.S.R.は…運命は…如何に…(汗)?
G.O.S.R. SU-

この度の大震災は、この島の人たちにも人ごとじゃありません。現に津波が来ました。(被害は無かった)それは半分冗談としてもこの島に住む日本人の何人かの親戚家族が被災しています。そして何より、この島が好きで毎年のように訪れていた人たちも多く被災したのです。
突然に起こった巨大地震と大津波、いったい誰が予想しますか? 被害の全容が日に日に明らかになるに付け、この島だけではなしに世界中が戦慄しています。
で、この島は早かった。地震二日後には早くもこの島の知事が、「日本を助けよう」とテレビ新聞で演説、それが今に続く島中での大義援金募集運動えと繋がったのです。
知事副知事とその家族は、朝夕の道端で信号待ちのドライバーに、街中の公園で道行く人々に義援の大切さを訴えたのです。そしてその義援活動の輪は、島中の小学校から中学校高校大学、軍政府職員、島中の職場、あらゆる団体、個人の別なく広く今も行なわれています。テレビに映る被災地の惨状も然る事ながら、被災者が同じ被災者を労わる日本人の優しさに多くの人の泪しています。
日本人を助けよう!助けて上げたい少しでも力になりたい!
今、この島の子供から大人までが「Saving for Japan disaster」一色です。
コンビニエンス大阪屋もまた、今回は知事に負けないくらい早かった。自身大枚1,000ドルをポーンと出したかと思えば13日(日)にはすでに店に「東北関東大震災義援募金箱」を早くも設置、誰彼構わず半強制的に募金を募っています。私も…私の場合いは強制ですが、店に行く度募金です。でも、何回してもし過ぎは無いような気がします。
一日も早い復興を願わずにいられません。しかしその前に被災者の方々ご自身が先ず健康であることが第一です。健康でありさえすれば先々は何とか成るもんです。
グアムのみんなの支援は、これから先も途切れることなく続きます。
大阪屋ともどもこの「支援の灯火」は当分消しません。
G.O.S.R. SU-

日本の皆さん、こんにちは。G.O.S.R.社長のSU-です。
さて、G.O.S.R.には、去年辺りから急にロシアとかチャイナからのお客さんが多くなっています。たった今も上海から来た、と言ういかにもお金持ちそうな家族連れが楽しそうに撃ってます。ロシアからの家族連れも、昨日、今日と連日です。
「軍事大国」のイメージのあるこれらの国々ですが、「一般庶民がレジャー感覚で実弾射撃」というのはじつはそうそう簡単に出来るものではないようで、そこら辺りは意外にも日本と似ているようです。 しかし銃に対する気の入れ方って言うんでしょうか? 思い入れは日本人とは相当に違いますね。あれは農耕民族と狩猟民族の違い?なのかは判りませんが、本当に楽しそうに銃に接しますし、撃ちます。 誰も銃を怖がりません。子供でもご婦人もです。銃声にも動じません。むしろ親が子供に積極的に撃たせます。
G.O.S.R.では毎年、夏休みやクリスマス休暇に地元のボーイスカウトの子供達が親と一緒にみんなで撃ちに来ます。もう恒例です。むしろ親が積極的ですからその辺りは子供が積極的で親が付いてくる日本とはだいぶ違います。我が子に銃を撃たせる、銃に慣れさせる、親しませるは、こちらアメリカでは「親が子供に教える大事な躾」のようなものなんでしょうね。
先週、18歳の息子が軍隊に入るから、と両親が銃の扱いを2日間かけて教え込んでいました。父親も元軍人らしく母親も交えて3人は真剣そのもので、両親がその息子にかける愛情の深さが滲み出ていたその姿にジーンとしてしまいました。
イラク戦争が始まって10年、この島から出征した兵士から、28名の若い命が失われています。つい2ヶ月前も19歳の女性兵士がアフガンで戦死しました(※戦死した彼らの大きな写真が、グアム国際空港に掲げてあるから日本に帰る際に一度見てほしい)。棺の前でまだ幼い妹が泣いている姿が大きな反響を呼びました。 だけど行かせるんですよ、この国の親たちは、我が子を戦場に……。何で? どうして? 大方、そんな風に考えるのは日本人だけで、ここ(アメリカ)では、自分が住む国への忠誠心が強烈ですから、国が戦争していれば自分も何かを手伝いたい、と言う衝動に駆られるのは当然なんで、だれもそれに口を挟む者なんか居ないんですよ。
無論、戦争は反対だという国民も居ます。ただ概ね少数派で、アメリカ国民の大多数は、「自分たちが選んだ指導者が始めたことは自分たちにも責任があるんだ!」と言う意識を全員が共有しています。
戦争は「国難」なのです、国難から国民が逃げていたら国が成り立たないんですよ。
そんなの「当たり前田のクラッカー」だいッ!!っと、SU-の同世代の方々は皆さん、思われているんじゃないかなぁ?世界地図を見ると、日本が位地する極東にはそれこそ世界有数の軍事大国が互いに凌ぎあってます。中国、北朝鮮、ロシア、韓国、台湾、そして米国……どうです凄いじゃないですか。もう少し日本は、自分たちの国家が位地する国際環境を、国民と政府が再認識すべきですよ。 平和は本当に貴重です。「平和に暮らせたらあとは何も要らない」と言う人々が世界にはそれこそゴマンと居るのです。日本は戦後66年、「平和(安全)と水と空気はタダ」のようにして暮らしてきました。でも今は、水だって空気だって金が掛かるんですよ。そして平和(安全)にだって莫大な金が掛かるんです。内輪の事だけでこれから先も日本という国家が存続していけるんだったらそんなにメデタイコトハないんですけどね。
SU-の独り言でした。













